U.S.JAPAN150日米交流150周年記念事業

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日米交流の始まり

1853年7月8日の明け方、突如として、ペリー提督率いる4隻の米国艦隊が江戸湾入り口の浦賀沖に現れました。蒸気船のサスケハナ号とミシシッピー号、帆船の軍艦、プリマス号とサラトガ号。いずれも、腐食と水漏れ防止のための黒いタールを塗った巨大な「黒船」でした。武装した船体の煙突から黒々と煙を上げる姿は当時の日本人の目には大変な脅威と映りました。そして、ペリー提督の来航は、日本を大きく揺さぶり、開国の引き金となったのです。約200年以上続いた鎖国体制が崩れ、日本に開港を要求する、イギリス、フランス、ロシアなど、西洋列強の圧力も一段と強まりました。その結果として、翌年の3月末には日米和親条約が締結され、世界でも一番重要な2国間関係と言われる日米関係の幕開けとなりました。

1.ペリー来航の目的

ペリー提督1852年11月24日、東インド艦隊司令長官を命ぜられたペリー提督は日本へ向けてアメリカ、ノーフォークを出港しました。大統領フィルモアからは、日本との国交樹立に向け交渉開始の指揮を取るよう訓令を受けていました。大西洋を横切り、アフリカ南端の喜望峰を回り、インド洋に出て香港へ寄航。その後、琉球(今の沖縄)を経由して226日という長い船旅の末、日本に着きました。そのような苦労をしてまで、ペリーが日本に来た理由はなんだったのでしょう。
19世紀前半、アメリカは世界最大の捕鯨国でした。当時、灯油として使用するための鯨油の人気が高く、鯨の需要が増加しました。その他にも鯨油は用途が広く、石鹸、ローソク、潤滑油などにも使われるほか、当時流行った女性のフープスカートを膨らます輪(フープ)に鯨のひげが向いているとされ、大量の捕鯨が続いていました。大西洋では乱獲のため鯨の数が激減したため、アメリカは北太平洋に進出してきました。そして、日本近海で操業するアメリカの捕鯨船乗組員の安全確保、食料や燃料の補給地を日本に求めたのです。
また、1840−42年のアヘン戦争で、清朝が敗北し、イギリスが勝利した後、列強はこぞって中国に進出しました。アメリカもアジア進出に遅れまいと、日本に足場を確保しようとしたという事情もありました。
さらに、アメリカは、1846−48年のメキシコとの戦争に勝利しカリフォルニアを手に入れ大陸国家となったことに勢いづき、新天地を求める開拓者精神が旺盛でした。この頃、アメリカには「マニフェスト・デスティニー(自明の運命)」という新しい理念が生まれ、アメリカの政治的、人道的理想を海外に広めようとする使命感の根幹をなすようになりました。その理念に基づいて、鎖国の日本を国際社会に引っ張り込もうという道徳的な要請も高まりました。しかし、何と言っても、未知の可能性を秘めた神秘の国、閉ざされた日本は、アメリカ人の好奇心とイマジネーションをかきたてたのです。

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2. 黒船と日本人

合衆国人物絵当時の日本は、1624年にイスパニア船の来航を禁じて以来、ポルトガル、イギリス船の来航も相次いで禁じ、鎖国体制を取っていました。日本人が国外に渡航することだけでなく、外国にいる日本人の帰国も禁止されました。対外交渉の窓口は長崎、鹿児島、対馬、松前の4つに限定され、オランダと中国の2国のみが長崎に入港することが出来ました。海外の情報は非常に限られており、オランダと中国の商人達を通してのみ伝えられていました。
1853年7月8日の浦賀沖、4隻の巨大な黒船が砲列を港に向けて勢ぞろいしている姿を見た人々は大騒ぎとなりました。帆を使わずに黒煙をあげ、海流や風向きの影響を受けずに自在に航行する船を見たのも初めてでした。夜になってかがり火がたかれ、海岸一帯を煌々と照らす中、槍や火縄銃を持った特別警備隊が配置され、民衆の中には山の中へ避難するものも多くいました。しかし、少し慣れてきて、黒船が自分たちに向けて発砲しないことがわかると、幕府の禁令を破っての黒船見物がブームになりました。
「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった4杯で夜も眠れず」というのは当時の狂歌です。上喜撰は高級ブランドのお茶の名前で、これを飲むと興奮してよく眠れないことと、蒸気船という言葉をかけており、当時の人々の黒船ショックをよく表わしています。

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3. ペリーのプロフィールと交渉術

ペリル像(西郷ペリー肉筆画)ペリー提督(マシュー・ガルブレイス・ペリー)は、1794年4月10日、アメリカ、ロードアイランド州ニューポートで生まれました。商船の船長の父と、海軍士官の兄を持つペリーは、14歳で海軍士官候補生になりました。多くの戦功を立てて実績を積み、1852年に東インド艦隊司令長官として日本遠征の命を受けます。そして、1853年に来日し翌54年には日米和親条約の締結を成し遂げました。1855年に帰国し、遠征についての記録「アメリカ艦隊の中国海域および日本遠征記」をニューヨークで出版し、大ベストセラーになりました。しかし、1858年3月4日に心臓発作のため63歳で永眠しました。
日本遠征の命を受けたときに58歳だったペリーは生涯最後の大仕事になるだろうと直感しました。そして、新興文明国のアメリカが、長い歴史を持ち、閉ざされた神秘の国「日本」の扉を最初に開けたいという強い使命感を持ち、ニューヨークとロンドンから日本関係の本を買い集めて、日本について猛勉強をしました。
ペリー来航以前の1846年に、東インド艦隊司令長官ジェイムス・ビッドルが通商を求めて来日しましたが、人の良いアメリカ人特有の、親しげに握手から入るような融和外交で臨み、浦賀奉行所にとりつくしまもなく追い返されました。その失敗に鑑みて、ペリーは威厳のある断固たる態度で交渉に臨み、形式と儀礼を重んじる日本人の敬意を得ようと努力しました。持ち前の傲慢さも加わって、日本側とは最高位の役人以外は決して会おうとしませんでした。黒船の軍事力を誇示しつつ高飛車な態度で日本人に応対する一方で、自分たちがいかに日本と親しくなりたいと思っているかをあらわそうとする両面作戦は功を奏したのです。

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4. 日本側の対応

出島幕府はなるべく時間稼ぎをしようとして、初めは長崎へ回航するよう要求しましたがペリーは聞き入れず、江戸湾深く入って測量を続けました。脅威を覚えた幕府はとりあえず国書を受け取る決定をしました。浦賀奉行所の役人と、ペリーの部下である艦隊のブキャナン、アダムス両艦長との予備折衝を経て、来航6日目に浦賀に近い久里浜の接待所で、和親、通商、燃料と食料の確保、海難捕鯨船員の保護を求める内容の国書授与式が行われました。ペリーは、もっと大規模な艦隊を率いて翌年再び来航することを約束し、その折には理性と友好に満ちた交渉開始が実現することを期待すると述べて、いったん浦賀を出航しました。
老中阿部正弘は、鎖国という対外政策に対する挑戦にどう対処したものか途方にくれました。当時は、内政上の不満を持つ大名たちによる、幕府権力や将軍家への抵抗が急速に広がり、幕府としても抑えきれなくなりつつあり、政局は不安定でした。幕府は、江戸時代には極めて異例の、国書を広く回覧し、各界から意見を募る民主的ともいえる対応を取りました。国内は開国・通商論、開国拒否・攘夷論が吹き荒れました。集まった意見書の内訳を見ると、徳川幕府始まって以来の決まりごとに従い、それ以上の要求が出たら拒絶する、という現状維持派が多数を占めました。他に、一定の制限のもとでならばアメリカとの通商を認めても良いのではないか、という消極的開国論、少数ではありましたが、積極的に開国を唱えるものもいました。しかし、国書回覧による意見を聞くというやり方は、幕府内部の体制の弱体化と優柔不断な態度を暴露する結果ともなりました。

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5. 日米和親条約

調印式翌年の1854年2月、香港でこの時を待っていたペリーは、最新の蒸気軍艦ポーハタン号を旗艦とした7隻の軍艦という大陣容で、再び来航しました。今度は浦賀沖ではなく江戸湾内へ入港し小柴村沖に錨をおろして幕府にプレッシャーをかけました。幕府は横浜村を会見地にしたいと申し入れ、ペリーとの交渉がスタートしました。
幕府は通商論とも攘夷論ともいずれとも確答を与えない「ぶらかし」戦術でまたもや時間を稼ぐ方針を取ることにし、儒学者の林大学頭復斎(はやしだいがくのかみ・ふくさい)を全権にペリーとの交渉にあたらせました。
しかし、ペリーはアメリカの要求が拒否されるならば直ちに戦争に訴える用意があると幕府を威圧しました。ペリーの強硬な態度と黒船の威容に恐れをなした幕府側は、国書で求められている、石炭、食料の補給、難破民保護の2つの要求は認めるが通商は拒否するという態度を固め、ペリーも一歩譲って日本の通商拒否を理解しました。
4回にわたる交渉の末、3月31日、全12条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)の調印が行われました。下田、箱館(函館)両港の開港、漂流民の救助、引渡し、アメリカ船への薪水・食料・石炭の供給、下田への領事駐在、などが主な内容でした。日本が列強のいずれかの国との抗争に巻き込まれたならば、アメリカが援助することも約束しました。これは、日本が初めて結んだ国際条約で外交上画期的な意味を持つものとなりました。
日米和親条約の調印後、ペリーは下田と箱館を視察に回りました。そして、下田に戻ると追加条約の交渉に入り、13条が締結されました。内容は、上陸場所を下田と柿崎にすること、休憩所を下田了仙寺と柿崎玉泉寺にすることなどが盛り込まれており、開港した場所の使用に関する細則でした。

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6. 日米の贈り物とレセプション

アメリカ人接待の図交渉がまとまる見通しがたった頃、日米の贈り物の交換が行われました。
アメリカからは、蒸気機関車の4分の1模型や電信機など140点が贈られました。人々は時速20マイルで走る蒸気機関車の模型に目を丸くして群がり、機関車の屋根に幕府の役人がしがみついて乗って大喜びをしました。また、電信機は実際に電柱を立てて通信実験がなされ、一瞬のうちに日本語、英語、オランダ語でメッセージが伝達される様子に日本人は非常に驚きました。
日本側は、絹織物、漆器、磁器などの伝統工芸品と米俵という幕府としては精一杯の贈り物でした。25人の相撲取りが俵を投げて怪力を披露し、相撲の取り組みも披露しました。
横浜村の接待所で第1回の交渉が開かれた日に、幕府は日本橋の老舗の料亭に500人前の仕出しを注文しました。酒、鯛の吸い物、50種類の肴、煮物、焼き物などの日本料理で酒宴が催されましたが、アメリカ人の口には合わなかったようです。
交渉がまとまると今度はアメリカ側が日本代表をポーハタン号に招待しました。林大学頭以下70名、見たこともなかった西洋料理と様々な酒を痛飲大食しました。テーブルに盛られた牛、羊、鶏、魚、野菜は、ペリー提督付きのコックが腕によりをかけて料理したものでした。酒はシャンパン、ワイン、シェリー、ウィスキーなどが豪華に並べられました。酔った目付けの一人は「アメリカも日本も皆、心は同じ」と叫んで、ペリー提督の肩に腕を回して抱きついたりしました。

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7. ペリーの日本人観と黒船来航後の変化

寺子屋ペリーは寺子屋や藩校などで学ぶ日本人の教育水準の高さに驚きました。そして、礼節を尊び、教養の高い日本人に好感を持ちました。また、日本の職人の技術の高さは世界のどの職人にも劣らないものであり、国民の発明力がもっと自由に発揮されれば世界の最も進んだ産業国に肩を並べる日も遠くないだろうと予言しました。また、日本人は進取の気性に富み好奇心も旺盛で、先進国の文化を容易に吸収できるだろう、とも述べる反面、当時の幕府の危機管理能力の欠如も指摘していました。
 ペリー来航を契機に、日本は大型船建造の禁止を解き、外洋船の所有も認められ、外国との交易が始まりました。洋学所が設置され、西洋技術の導入が緊急課題とされました。ペリーの来航で技術力の差を見せ付けられ、西洋に追いつき文明を吸収しようという必死の努力が始まりました。日米和親条約に引き続き、イギリス、ロシア、オランダの3国とも同じような条約が結ばれて、日本の鎖国という重い扉が大きく開かれたのでした。

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参考文献とウェブサイト

・足立和 「ペリー艦隊・黒船に乗っていた日本人―『栄力丸』17名の漂流人生」
 (徳間書店、1990年)
・石井寛治「体系 日本の歴史」『12 開国と維新』
 (小学館・1989年)
・井上光貞、永原慶二他「日本歴史体系」『12 開国と幕末政治』
 (山川出版社、 1996年)
・加藤祐三「黒船前後の世界」
 (岩波書店、1985年)
・加藤祐三「黒船異変―ペリーの挑戦―」
 (岩波書店、1988年)
・笠原一男、児玉幸多編「日本史こぼれ話」
 (山川出版社、1993年)
・フォスター・リーア・ダレス著、桜田方子他訳「さむらいとヤンキー」
 (読売新聞社、1969年)
・NHK「歴史への招待 第20巻―黒船襲来」
 (日本放送出版協会、1989年)
・濱屋雅軌「日本開国―ペリーとハリスの交渉」
 (高文堂出版社、1986年)
・濱屋雅軌「日米関係の原点―ペリーに関する研究―」
 (高文堂出版社、1992年)
・平尾信子「黒船前夜の出会いー捕鯨船長クーパーの来航―」
 (日本放送出版協会、1994年)
・増田弘、木村昌人編「日本外交史ハンドブック 解説と資料」
 (有信堂、1995年)
・宮永孝 「ペリー提督―日本遠征とその生涯」
 (有隣新書、1981年)
・横浜開港資料館編「横浜・歴史の街かど」
 (神奈川新聞社、2002年)
・了仙寺宝物館編「黒船―ペリーと日本がみた異文化」
 (2000年)

・了仙寺ホームページ「了仙寺・下田開港150年」
  http://www.izu.co.jp/~ryosenji/9shimoda150.htm
・The Japan Society of San Diego and Tijuana
  "150th Anniversary Between the U.S. and Japan"
  http://www.japan-society.org/commodoreperry.html
・京都守護職会津藩/御陵衛視とその時代
 「開国前夜(1)」
  http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi0-kaikokumae.htm
 「開国前夜(2)」
  http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi00-yokoku.htm
 「開国(1)ペリーの浦賀来航」
  http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi1-kaikoku.htm
 「開国(2)日米和親条約と安静の幕政改革」
  http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi1a-kaikoku.htm

※このページで紹介しているホームページアドレスは2004年7月現在のものです。

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